幸福になりたいと多くの人が思っている。企業の理念にも「何々をすることにより社会を幸福にする」とあることが多い。政治や宗教でも多くが人の幸福のために活動していると標榜している。古くから人は幸福を求めてきたし、また、幸福とは何かを考えてきた。どうしたら幸福と思える状態になるかを考え続けてきた。
ブッダは逆説的にというか、人間の生は「苦」だとした。生まれながらにして人間は「生老病死」という苦を背負っている。そこから解放されるには、悟りしかないということだ。悟りとは苦がない状態であり、それは自身の欲望から解放され、宇宙を認識し、それと一体となり、自己を超越しているような状態と言われたりするが、そのようなことが可能だろうか。
一般には、幸福とは仏教とは真逆で、自己の欲望が満たされた状態を言うことが多い。健康で、お金があって、愛する家族に恵まれ、社会的にも認められているといったことだ。しかし、それは災害などのアクシデントで一瞬にして失うことがある。そのような刹那にわたしたちは生きている。
幸福を得るには、利他的な心を持つことだとも良く言われる。仏教でも慈悲の心が求められ、キリスト教では隣人愛が説かれる。経営でも利他的な心が巡り巡って富をもたらすと言われることがある。利他的であることは、古くからの黄金の法則だという。しかし、これは利己的な富を求めるために、意図的に利他的な態度を取っても、それは嘘であり、幸福を得ることはないだろう。欺瞞から幸福が生まれるとは思えない。心と行いが分裂したままでは、けっして満たされることはない。
何はともあれ、わたしたちは今、こうして生きている。生きているから今このように考えることができ、息をしているのだ。
それは幸福なことだとも言える。そもそも生まれたということは奇跡のようなことだ。このように意識を持って、自己と世界を認識できることに幸福を感じれば良いのではないだろうか。塞ぎ込んでいるから不幸になるのだ。幸福な気持ちの人は、幸福を感じている。冗談のような話しだが、それが現実的かもしれない。しかし、それも一瞬にして不幸のどん底に落とされるのが人間の宿命でもあり、それがブッダの認識していたことでもあった。だからこそ、幸福を感じられるときを楽しめという、刹那主義に陥ることしかないのだろうか。
ただ、幸福だと主観的に感じている人にとっては、幸福はそこにあるのだ。ただし、それを客観的に見る者にとって、どうみても幸福な状態ではないと思えることはよくある。だが、その人はまぎれもなく自分が幸福だと信じている。それは幸福な状態なのだろうか。マインドコントロール下で幸福だと信じ込まされて、身ぐるみ剥がされているとしても、幸福だろうか。それは、誰もが違うと思うだろう。人間の意識など頼りないものだ。意識が混濁したなかで幸福を感じたとして、それは幸福だろうか。恍惚とした幸福感があれば幸福なのだろうか。それなら、現代では薬などによって幸福が作り出せてしまうのだはないだろうか。それを幸福とは言いたくはない。
しかし、わたしたちは幸福を求めたいと思う。そのために幸福とは何か考えたい。やはり、今ある幸福を実感してみることは一つの方法ではあるだろう。その多くが他者の助けによってなされていることに気づくのではないだろうか。人間はこうして生命を維持するためには社会的に協力し合うしかないようになっている。他者もまた自分と同じなのだ。だから自己を幸福にすると同時に他者をも幸福にしなければならない。そうしなければ、そもそも生きていくことができない。生きていなければ幸福も何もない。だから、他者を奴隷のように扱っておいて、自分の欲望を満たしていても、それは幸福ではない。他者の幸福を奪うことは、自己の幸福も奪っているのだ。それは鏡のような関係になっている。だとすれば、自己を幸福にすることは、他者をも幸福にすることにつながるだろう。やはり、まず、今こうして生きていることを幸福だと思うことから始めてみたらどうだろうか。
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